〜ジャッキー吉川とブルーコメッツの歴史〜

 ロックンロール・コンボとしてのブルコメの歴史は、1950年代にまで溯る。ビートルズの日本招聘で知られる日本招協同企画・永島達司氏の肝いりで、バンド・リーダー級を集めてブルコメが結成されたのは、57年9月。活動の場は、ジャズ喫茶や米軍キャンプが中心だったが、59年6月から8月まで来日したジーン・ビンセントの全国ツアーではバックも務め、日劇ウエスタン・カーニバルの常連バンドとなった。58年暮れには、高校生だったジャッキー吉川がバンド・ボーイとして参加。他のバンドを経て、61年ブルコメの正式ドラマーとして一本立ちした。同じ頃、高校生だった小田啓義もピアノで加入(その後ウエスタン・キャラバンに移籍)。62年には、ウエスタン・バンドでベースを弾いていた高橋健二がスカウトされ、64年に入ると、テナーサックスの井上忠夫とギターの三原綱木が加わり、小田も復帰。65年5月、一時期ブルコメを離れていた高橋が戻り、ここに黄金時代のメンバーが揃うのである。  鹿内タカシや尾藤イサオ、フランツ・フリーデルなどのバックバンドとして高い評価を受けていた彼らが、自らもコーラスの練習を始めたのは1965年初めの頃で、井上は後年、「ブルコメと同じバンド編成だったスペインの“ラスパニョレス”というグループが歌っているのをテレビで見て、触発された」と述懐している。66年7月10日、日本コロムビアがCBSレーベルから発売した「青い瞳(日本語)」は、50万枚を超える大ヒットを記録、同年の3月20日に先行して発売された英語盤に続くヒットにより、後に“グループ・サウンズ(GS)”と総称されることになる和製ヴォーカル・インストゥルメンタル・グループの一大ムーヴメントに先鞭をつける形となったのである。  66年6月から7月にかけてのビートルズ来日公演では、ブルー・ジーンズや尾藤イサオ、内田裕也などと共に前座も務め、同年9月には、“青シリーズ”第2弾の「青い渚」が連続ヒット。同年12月には、井上と三原のソロが初々しいTVドラマ主題歌「何処へ」をリリースと快進撃が続く。年末の新人賞レースでは荒木一郎の後塵を拝したが、NHK紅白歌合戦には「青い瞳」で初出場を果たした。67年3月の“青シリーズ”第3弾「ブルー・シャトウ」がミリオン・セラーとなったのに続き、6月の「マリアの泉」、9月の「北国の二人」も大ヒット。特に68年にスタートしたオリコンのシングル・チャート1月4日付けベストテンで7位に入った「北国の二人」は、前年に行われた実験的なチャート作成では1位にランクされており、“幻の初トップ曲”として現在も語り継がれている。この年の5月には、ブルコメがバックを務めた美空ひばりの「真赤な太陽」がリリースされ、話題を呼んだ。さらに暮には「ブルー・シャトウ」で日本レコード大賞を受賞と、67年はブルコメが大きく飛躍した実り多い年であった。  68年1月に発売された「こころの虹」はオリコン5位のヒット。ラテン・コーラス・グループを彷彿とさせるアレンジのこの曲は、オス・インクリヴェイスというブラジルのバンドによるカヴァー・ヴァージョンもリリースされており、ブラジルのチャートにもランクインした。同年4月の「白鳥の歌」は平尾昌晃の作曲でオリコン15位。再び井上忠夫作品となった6月リリースの「草原の輝き」もオリコン15位だった。CBSレーベルがコロムビアを離れた後の68年10月に発売された「さよならのあとで」は、筒美京平による作曲でオリコン3位の大ヒット。ムード歌謡の雰囲気も漂う作品に長年のブルコメ・ファンも大いに戸惑い、芸能誌などは「ブルコメが歌謡曲に転向」と書きたてた。12月に発売された「雨の赤坂」は、三原綱木の作品としては初めてのA面扱いでオリコン20位。イントロでテナー・サックスがむせび泣き、「さよならのあとで」を上回る濃厚なムード歌謡だった。ブルコメは67年秋に渡欧したのに続き、68年春には渡米し、ビートルズやローリング・ストーンズなども登場した当時の米国の人気番組『エド・サリヴァン・ショー』にも出演。欧米のショウ・ビジネスの現場を目の当たりにしてその格差に愕然とし、帰国後、特に音楽的な面でのリーダーだった井上忠夫が、日本的な音楽=演歌への傾倒を強め、それがその後の路線にも大きく影響したようだ。  69年4月の「涙の糸」は、再び筒美によるR&Bテイストの佳曲でオリコン16位。B面の「ブル-・シャンソン」は、アコースティックな透明感あふれる井上作品だった。10月リリースの「海辺の石段」は、なかにし礼と井上の初コンビ作品で、イントロと間奏では井上がキャナリーという鍵盤楽器を弾き、小田が電気琴に挑戦するなど意欲的なシングル曲(オリコン18位)だった。70年2月に発売された「それはキッスで始まった」もなかにし&井上作品(オリコン25位)。7月の「泣きながら恋をして」は、なかにし&井上コンビの第3弾で、三原がレキント・ギターを弾き、井上がコンガを叩くという趣向ながらも、オリコン41位どまり。9月にリリースされた「むらさき日記」は、「草原の輝き」以来2年ぶりの橋本&井上ゴールデン・コンビによる作品となったが、当初、青江三奈向けの企画だったというだけあり、井上自身が「ブルコメの中でも最も歌謡曲的な作品」と語るほど演歌に近い趣きで、オリコン74位に終わっている。  71年1月の「雨の賛美歌」は、再びなかにし&井上コンビに戻り、初期作品を思わせる抽象的な歌詞とGS的なサウンドを強調してオリコン65位。同年4月には、「雨の赤坂」以来1年8カ月ぶりの橋本&三原コンビによる「津軽の海」をリリースするが、チャートインには至らなかった。同年8月に発売された「生きるよろこびを」は、「涙の糸」以来2年4カ月ぶりの筒美作品。B面の「その時雲は流れてた」も筒美作品で、セールス的にはこちらをA面扱いにした方が面白かったのではないかと思われる佳曲である。9月の「虹と雪のバラード」は、翌年に日本で初めて開かれた冬季五輪大会である札幌オリンピックの公式テーマソング。トワ・エ・モワでヒットしたため、ブルコメも歌っていたことを知る人は少ない。B面の「愛の子守歌」は、「さよならのあとで」のB面曲「小さな秘密」に続く高橋健二のシングル2作目で、珍しい高橋のソロが聴ける。  72年2月の「希望にみちた二人のために」は、シングル盤としては、橋本&三原コンビの第3弾で、サビ部分でのヴォイス・エフェクトが印象的。B面の「想い出の彼方に」は、橋本&井上ゴールデン・コンビによるシングル盤としては最後の作品で、バック・コーラスやアコースティック・ギターのフレーズが、70年代ウエスト・コースト・サウンド的な雰囲気を醸し出している。ブルコメ最後のシングル盤となった「雨の朝の少女」は72年8月の発売。作詞のなかにし礼、作曲の鈴木邦彦は、ともに、多くのGS作品を残しており、この曲は、単にブルコメという一グループのラスト・シングルというだけでなく、GSという一大音楽ムーヴメントのグランド・フィナーレを飾る楽曲でもあった。  “最後のGS”として70年代初めまで活動を続けたブルコメは、このシングルの発売から2カ月後の72年10月、いわゆるGSとしての7年間に及ぶキャリアに終止符を打ち、ここにGSムーヴメントは、名実共に幕を閉じたのである。
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